山崎宗鑑について
市川 吉澄 家 (山崎 宗鑑 )
2011年06月15日
草津市志那浜から 一町ばかり東に市川 吉澄家があるが、この屋敷内に昭和四十七年「俳祖宗鑑翁屋敷跡」という石碑が宗鑑顕彰会によって建てられた。
屋敷の中央に大きな仏壇があり、仏壇底の抽き出しに市川家の系図が保管されていた。
その中に古文書類があり、その中には、宗鑑の本名弥三郎範重の名は見つからないが、市川家が近江源氏 佐々木氏の末裔だという事がしっかり示されていた。
宗鑑の志那氏は佐々木秀義 (一一一ニ〜 一一ハ四 )の五男、五郎左衛門義清を祖とし、志那浜に志那渡津の政所ありし家とある。
佐々木秀義は治承四年 (一一ハ○ ) 源 頼朝挙兵には長男定綱 ・三男盛綱 ・四男高綱もその傘下に入った。市川家の祖五男義清は実朝につかえた。
秀義は七十三歳をもって戦死、源 頼朝は秀義の死を悼み、嫡男定綱に命じて長命寺(三仏堂) を建立させて菩提を弔わせている。
市川家系図の中にも、十三代朝春の妹 月桂院が長命寺の尼として入っている。
加えて市川家四代吉廣の妹 が 将軍に仕え、市川局といわれた。
市川家の家系図の肩書を見ると
初代 〜 五代 ( 市川氏 ) 六代のみ (志那氏 ) 七代 (市川志名氏)
ハ代・九代 ( 市川志名城主) 十代 〜 十五代 (市川品城主)
十六代 ( 政所 ) 十七代以後 (庄屋役 )となっている。
「 品 」は志那 ・志那中 ・吉田 の各村を一つずの 「 口 」で表し、その合併した共同体を 「品 」という字で示したものとみられる。

屋敷の中央に大きな仏壇があり、仏壇底の抽き出しに市川家の系図が保管されていた。
その中に古文書類があり、その中には、宗鑑の本名弥三郎範重の名は見つからないが、市川家が近江源氏 佐々木氏の末裔だという事がしっかり示されていた。
宗鑑の志那氏は佐々木秀義 (一一一ニ〜 一一ハ四 )の五男、五郎左衛門義清を祖とし、志那浜に志那渡津の政所ありし家とある。
佐々木秀義は治承四年 (一一ハ○ ) 源 頼朝挙兵には長男定綱 ・三男盛綱 ・四男高綱もその傘下に入った。市川家の祖五男義清は実朝につかえた。
秀義は七十三歳をもって戦死、源 頼朝は秀義の死を悼み、嫡男定綱に命じて長命寺(三仏堂) を建立させて菩提を弔わせている。
市川家系図の中にも、十三代朝春の妹 月桂院が長命寺の尼として入っている。
加えて市川家四代吉廣の妹 が 将軍に仕え、市川局といわれた。
市川家の家系図の肩書を見ると
初代 〜 五代 ( 市川氏 ) 六代のみ (志那氏 ) 七代 (市川志名氏)
ハ代・九代 ( 市川志名城主) 十代 〜 十五代 (市川品城主)
十六代 ( 政所 ) 十七代以後 (庄屋役 )となっている。
「 品 」は志那 ・志那中 ・吉田 の各村を一つずの 「 口 」で表し、その合併した共同体を 「品 」という字で示したものとみられる。


山崎宗鑑の出自
2011年06月10日

俳祖宗鑑翁屋敷跡石碑(市川吉澄家:草津市支那町)
この石碑は、故中神良太先生が元気に歴史文化の研究探求され、
特に山崎宗鑑の俳諧作品に精通 に ともない俳諧同士で
宗鑑翁顕彰会が主となり、市長、地元民と共に建碑と盛大に
除幕式が市川邸内にて昭和四十七年十月ニ十ニ日行われました( ^ ^ )/□
俳祖宗鑑翁屋敷跡石碑についてはこちらのご参考下さい。
山崎宗鑑翁屋敷跡 について
山崎宗鑑は和歌連歌の名家なり、俳祖として又、書道の達人でもあった。(宗鑑)。
栗太郡常磐村大字志那の人。本姓は志那弥三郎(寛正六年(一四六五生まれ)と称し、
範重と名ずく。
宗鑑は範光という名で幼少より待童となり、足利義尚に使えた佐々木義清の末裔である。
長享三年(一四ハ九) 義尚が、江州の六角高頼を討伐中、鈎(栗東市)陣屋にて、ニ十五歳の
若さで陣没する。
志那弥三郎範重 ( 山崎宗鑑)は人生の無常を悟り、ニ十五歳 (一四ハ九)で出家、
尼崎に隠遁した。
名僧一休と宗長・宗鑑の関係は、守山市矢島町に一休に縁のある寺、臨済宗大徳寺派
小林寺がある。この小林寺に一休和尚坐像 絹本一休和尚画像 一休自賛・絹本華曳和尚画
像伝一休自賛他が残っている。堅田にて華曳宗曇よりニ十五歳に 一休 の号を与えられ、
四十ニ歳大徳寺、更に山崎に移り住み、ここえ連歌師柴屋軒宗長と山崎宗鑑が参禅した
一休和尚を師と仰ぎ、大徳寺真珠庵の畔に住み、修行に励み、一休宗純和尚没後は
山崎對月庵に住んで、一休和尚を弔うなど、精神的な感銘を強く受けていた。
この地に住んだので、世人が山崎と称するに至ったのである。
その後、讃岐観音寺市 興昌寺の琴平山中腹に「 一夜庵 」 を建て、ここに悠々自適
推定約ニ十六年を過ごし天文ニ十ニ年十月ニ日 ( 一五五三 ) 没 享年ハ十九歳 。
宗鑑 ( 志那弥三郎 )の祖父五代市川伊賀守定重は、能 ・書 ・歌人として認められていた。
父六代志那左馬介定氏は 弓 ・ 馬 ・の達人であるが、弥三郎は祖父の影響があったかもしれない。(六代のみ姓は志那となる
七代志名左馬正定氏の三男信氏の母が山崎源太重宜の娘とある。
又 志那の地より「天正五年 (一五三七年) 是より東、政所屋舗 」の標石が出土している。



