聖徳太子
・聖徳太子(しょうとくたいし)・厩戸皇子(うまやどのおおじ)生誕 敏達天皇(3年・574年2月7日)〜死亡推古天皇30年4月8日49才
父 用明天皇の第二皇子。母欽明天皇の皇女穴穂部間人(あなほベのはしひとのひめみこ)
妻 蘇我馬子の娘 刀自古郎女妃 622年4月7日亡
子 山背大兄皇子(やましろのおおえのおおじ)次期天皇候補 蘇我入鹿が暗殺(644年)
・厩戸皇太子は「天皇家史上初の女帝である推古天皇」より推古天皇元年(593年)
摂政に任じられ、蘇我馬子(大臣)と共に天皇を補佐し、天皇を中心とした中央集権
国家体制の確立を図った。 又、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
・575年2才 小さな手を合わせ、「南無仏」と念仏を唱えたという。
・587年 厩戸皇子14才「丁未の変」に参戦。
・588年15才飛鳥寺大寺院建立・仏教を基盤とした国造をめざす。
・592年19才推古天皇33代女帝天皇となる。
・593年20才厩戸皇子 推古天皇より摂政に任じられる。
・594年21才厩戸皇子 一仏教興隆の紹を発する。寺院建立にふさわしい地を求めて近江(滋賀県)に立ち寄った。
・599年26才大地震による民の苦しみがひどくなり、聖徳太子は民の苦しみを救えと
四天王寺院内に寮病院(病院)・施薬院(薬局)・悲田院(救済施設)を自から立ち上げ
日本初の福祉救済事業を行った。
・601年28才斑鳩宮を造営した。
・603年30才冠位十二階を定めた。(日本初の冠位制)
1. 大徳(だいとく)濃紫 2.小徳(しょうとく)薄紫
3. 大仁(だいにん)濃青 4.小仁(しょうにん)薄青
5. 大礼(だいらい)濃赤 6.小礼(しょうらい)薄赤
7. 大信(だいしん)濃黄 8.小信(しょうしん)薄黄
9. 大義(だいぎ ) 濃白 10.小義(しょうぎ )薄白
11. 大智(だいち )濃黒 12.小智(しょうち )薄智
604年31才憲法 十七条を制定する。
一曰く 和を大切にし、人と争わないようにすること。
ニ曰く 厚く三宝(仏・法・僧)を敬え。仏教を信仰すること。
三曰く 天皇の言うことには、必ず従うこと。
四日く すべての役人は礼を守ること礼は民を治めて役人の序列も維持することができる
五日く 私利私欲に走ることなく、民衆の言うことに耳を傾け公正に裁くこと。
六曰く 良いことと悪いことをよく見極めること。
七曰く 自身の役目を確実に行い、他人の職務に対して口出ししないこと。
八曰く 役人は早朝より出勤し、夜遅くまで働くこと。
九曰く 信は義の根本、信がなければ何も成功しない。
十曰く 人はいろいろな意見があって当たり前意見が違うからと言って怒ってはいけない
十一曰く役人達は功績・過失をよく見てそれに見合う賞罰を必ず行うこと。
十二曰く役人は人民から公的な税と一緒に私的な税をとってはならない。
十三曰く役人はどんな職に任じられても同僚・上司の職を知りおき公務を果たすこと。
十四日く役人は他人を嫉妬する気持ちを持ってはならない。
十五日く役人は私情を捨てて職務を行うことが大切である。
十六曰く人民を労使する時は時期を考えること。農繁期は避ける。
十七曰く物事は一人で決めてはならない、重大な事は議論をして判断すること。
605年32才聖徳太子は斑鳩宮へ移り住んだ。蘇我馬子と距離をおく事のになる。
607年34才隋に国書、翌年返礼の使者が訪ずれた。
615年42才三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著した
622年49才 斑鳩宮にて厩戸皇子(聖徳太子)倒れる
回復を祈りながら厩戸皇子妃(刀自古郎女妃)2月21日病没
翌日2月22日厩戸皇子(聖徳太子)は亡くなった。
聖徳太子と仏教
日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる、太子に縁の寺院が
数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りただけとか
実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられる。
太子建立七大寺院創建
四天王寺・法隆寺・中宮寺(中宮尼寺)・橘寺・興隆寺・法起寺・葛木寺(葛城尼寺
河内三太子 上光太子(叡福寺)・中之太子(野中寺)・下之太子(大聖勝軍寺)
太子信仰
日本には聖徳太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地にある
聖徳太子はお金
お札の顔として七回もなり国民全員が知る所である。
聖徳太子については誰でもご存知なのてこのくらいで…………
(資料:聖徳太子図)