芦浦観音寺は聖徳太子が開基し、秦河勝が創建したと伝えられている。
これは、「物部氏」と「蘇我氏」の崇仏・廃仏との権力の争いが激化し、その中で蘇我氏側の聖徳太子この戦いに
参戦し、秦河勝(渡来人)とともに近江の国の物部一族の殲滅を行ったに由来するものと思われる。
では、「物部氏」とは何ぞや。 「蘇我氏」とは何ぞや。
「物部氏」(もののべうじ)
・古代の有力豪族(むらじ)又は物部としようして、紀元前より神宮のお供物給仕役を行って来た。
・祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え、物部八十氏とも称された。
・代10崇神天皇(すじん)「紀元前97年〜紀元前30」より大連の姓を賜った。崇神天皇から神事の神に捧げる物を
つかわす人となった。 又、八十平亙(やてひらか)を祭神えのお供物を扱うことを命じられたこと。神宝を管理する
事になったことなどがあり、物部氏が神事に深くかかわり、全国の神社に関与していった。
・21代雄略天皇(ゆうりゃく)「456年〜479年」雄略天皇より大連「軍事・警察」の任務に就き、
伊勢の朝日郎(あさひのらっこ)を征伐。筑紫国造磐升と交戦 、平定した。
・26代 継体天皇(けいたい)「507年〜531年」継体天皇より物部鹿鹿火にも大連に任じられた。
・29代欽明天皇(きんめい)「539年〜571年」欽明天皇より物部尾輿(おこし)も大連に任じられた。
欽明天皇より蘇我稲目も大臣(おおおみ)に任じられ、
朝廷中枢での権力闘争、対立するようになる。j
・30代敏達天皇(びだつ)「572年〜585年」 敏達天皇より物部守屋も大連に任じられた。
敏達天皇より蘇我馬子も大臣に任じられた。
蘇我馬子・物部守屋 587年(用明2年)権勢の争いが激しく、祟仏・廃仏をめぐる確執が激化し
戦いが起り蘇我馬子は天皇家・聖徳太子・渡来人を味方つけ蘇我氏に物部一族は滅ぼされた。
物部一族は以後朝廷政治の中枢から姿を消える事になった。
・40代天武天皇(てんむ)「673年〜686年」 672年 壬申の乱 に物部雄君(おきみ)が天武天皇側の
武将として大功をあげたため、この系統の物部の氏は命脈を保つことができ、684年(天武13)
11月 朝臣の姓を賜った。まもなく物部の氏の名を改め、石上朝臣となった。
奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸・明治と改藩まで続いた。
・大和王 権下の地位 豪族「氏・うじ」 豪族の長 「氏上・うじかみ」
「大連・おおむらじ」軍事・裁判 担当
「大臣・おおおみ」 財政・外交 担当
「臣・おみ」 「連・むらじ」 「宿禰・すくね」「造・みやっこ」
「姓・かばね」等を授けられた。
(資料:垂仁天皇家系図)※クリックで拡大
(資料:物部分布図)※クリックで拡大